論説文と小説

2005/07/08 の日記 で,

  • 小説は試験問題に適さない
  • 論説文は試験問題に適する

と結論づけたけれど,上で述べた「観察の理論負荷性」に基づき,

  • 論説文も含め,国語は試験問題に適さない

という反論があった.

そして,実際に「観察の理論負荷性」を調べてみて,やはり自分の考えの方が正しい,と思ったわけだ.

まず,「観察の理論負荷性」とは,「論理実証主義的科学観」に疑問を投げかけるものだ.「論理実証主義的科学観」とは,過去の仮説から論理的に導いた「理論命題」と,人間が実験などで観察した「観察命題」が一致することで「論理」が「実証」され「科学」となる,という考え方である.しかし,観察者の経験によって「観察命題」に違いが生じる,というのが「観察の理論負荷性」で,万人に対して「理論命題」と「観察命題」は一致するのかと疑問を呈している.

ここで注意して欲しいのは,「観察命題」は「観察の理論負荷性」によって観察者によって個人差が生じる曖昧なものとなるが,「理論命題」は依然,万人に共通の厳格なものだということだ.「理論命題」は命題論理に従っている.

命題論理では,まず証明できないが正しいものとして「公理」を置き(もちろん,公理は矛盾を生じてはならない),公理と「仮定」に基づいた推論によって命題の真偽を判定する.実際は,完全に公理のみで証明すると長くなるので,公理から導くことの出来る「定理」を置き,公理と定理と仮定から命題の真偽を判定することになる.その結果,命題は「真」,「偽」,「判定不能」のいずれかとなる.判定不能となるのは仮定が足りない場合である.

ここで,「論説文」は基本的に命題論理に従った物である.万人に対して自らの主張を知らしめるためである.命題論理に従っていない論説文は,「論理的でない」とか「トンデモ」とか「電波」とか言われる.言語自体の曖昧さは棚に上げておくが,論説文は命題論理の論理式をそのまま言語に置き換えたものと考えてよい.

読者が論説文を理解できないというのは,論説文が命題論理に従っている限り,読者に論説文の内容の真偽を判定するための「仮定」が足りない,ということになる.この仮定は学校などで知識として教授されるか,読者が独自の経験で同等の知識を学習することになる.知識や経験によって仮定が十分であれば,後は推論そのものが理解できれば,読者は論説文を理解できることになる.

論説文を試験問題にしたとき,読者が選択肢を選び間違う,あるいは判断しかねる状況は以下の通り.

  1. 本文,または設問がおかしい(悪文,悪問)
  2. 論説文の真偽を判定するための仮定(知識,経験)が足りない
  3. 読者が命題論理の推論を理解できない

これは1を除いて,読者の能力不足が原因なので,論説文が試験問題となることを阻害する物ではない.また,仮定となる知識も,その知識を持っていることが受験者の選別の要件ならば問題ないし,あらゆる受験者に対しても「学習指導要領」などの標準に基づいていれば問題ない.

以上より,論説文は試験問題に適する.

一方,小説でもほぼ同様なことが言える.しかし,小説のあらゆる比喩表現(例えば,「誰もいない岬」→寂しい)を学校で知識として指導することは現実的でない.また,読者の経験で代替するにしても,経験によって観察される事実には「観察の理論負荷性」の問題がある.そのため,真偽の判定不能に陥る可能性が高い.

以上より,小説は試験問題に適さない.